2024年4月15日月曜日

教会の条件(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年4月7日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

第一ヨハネ1章1節-2章2節

ヨハネ20章19-31節

 

説教題 「教会の条件」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて、いろいろ大切なことを教えるところです。大切なことは三つあります。まず、イエス様が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったこと。イエス様の言う平和。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えたこと。罪の赦しの権限。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりましたが、その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」です。この三つのこと、罪の赦しの権限、イエス様の言う平和、目で見なくても信じるということは、よく考えるとキリスト教会が成り立つ条件であると言えます。イエス様は復活後40日したら天の父なるみ神のもとに上げられますが、その後でこの世に誕生する教会の設立条件をここで定めたとも言えます。今日は、この三つの条件について学んで、それがスオミ教会に備わっているか各自で考えてみる一助になればと思います。

 

2.罪の赦しの権限

 

 まず、罪の赦しの権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがないままで去らねばなりません。この悲惨な状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈って、人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。しかし、神は想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 

 そこで人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものとすることができます。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪が赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。この新しい自分は神のひとり子の犠牲の上にあるとわかれば、罪に反対して生きていこうという心になります。

 

 このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たち人間に備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えますが、それは、神が備えて下さった罪の赦しを人間に及ぼす権限を授けたということです。人間が罪の赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちは、イエス様が聖霊を授けることをして権限が与えられました。イエス様が天に上げられると今度は、使徒たちが次に権限を与えられる者に手をかざす按手という儀式を行って、罪の赦しを取り次ぐ権限を伝授していきました。伝授された者たちも次に権限が与えられる者に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。これが使徒的な伝統ということです。

 

 2年前の復活節第二主日の礼拝の説教で、私は当時スオミ教会が用いていた日本福音ルーテル教会の式文に注文をつけたことがあります。皆さんはおぼえていらっしゃるでしょうか?それは、式の最初の部分で、会衆が一緒に行う「罪の告白」に続いて「罪の赦しの祈願祝福」というものがありました。その文句は「イエス・キリストを死に渡し、全ての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に赦しと慰めを与えて下さるように」という具合に、牧師は「赦しがありますように」と赦しを祈り願う言い方でした。それに対して、フィンランドのルター派教会ではそのような祈願ではなく、ずばり罪の赦しを宣言します。言い方は、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します。」ここで注意すべきことは、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言しますということです。誰がそんな権限を委ねられているのか?先ほども申しましたように、最初の使徒たちがイエス様から委ねられました。本日のヨハネ福音書の通りです。その後は、使徒的な伝統に立って教会の牧会者に任命された者たちです。私は2年前の説教で、いつの日かスオミ教会でフィンランドと同じような罪の赦しの宣言がなされることを希望しますと申したのですが、それは本当にその通りになり感謝です。罪の赦しの権限を委ねられた牧会者がいるというのは教会の条件です。

 

3.目で見なくても信じられる

 

 次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るという奇跡、そういうことを行う者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれてくるでしょう。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるというのが本当の信じることだと言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

 

 このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じられるということを強調します。使徒パウロは第二コリント418節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、57節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ824節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」111節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

 さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられますが、それ以後は復活の主を目撃できません。それなので、目撃者の証言を信じるかどうかということがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められているということ、これがわかってそれを自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは目撃者の弟子たちが最初に自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象を超えた大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

 

4.イエス様が言われる平和

 

 イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומです。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もありますが、その他に、繁栄とか成功とか健康というように人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

 

 それがどういう意味だったかわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

 

 イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。ローマ51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということはコロサイ12122節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれた、それでイエス様を救い主として受け入れたら、神のみ前に立たされても大丈夫でいられということです。

 

 こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は何の変更もなく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪の支配から贖われていることを強化していけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を揺るがないものにしていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さることを確信して神に全てを委ねることが出来ます。

 

5.目撃者と証言を聞いた人たちの一体性

 

 以上、キリスト教会の三つの条件、罪の赦しの権限を委ねられた牧会者が教会にいること、信仰と洗礼を通して信徒一人一人が神と揺るがない平和な関係にあること、そして一人ひとりは目で見なくともイエス様が復活されたことを信じられることについて見てきました。もし教会がこれらの条件を満たしていなかったら、教会とは言えないと言ってもいいかもしれません。

 

 先ほど、目撃者たちは復活に秘められた大切なことをわかって自分のものにした、そして目撃者の証言を聞いた人たちもそれがわかって自分のものにした、だから目で見なくても信じられるようになったと申しました。その大切なこととは神との平和であるとも申しました。そのことについては本日の聖書日課の別の個所、使徒言行録の個所と第一ヨハネの個所でも述べられているので、最後にそれを見ておこうと思います。

 

 そこでは、最初の目撃者と彼らの証言を受け入れて信じた人たちの間に一体性があるということが言われています。ヨハネは、目撃者の使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは、ずばり、伝える者と伝えられた者が一体性を持つためであると言います(第一ヨハネ13節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っていて、なんだか礼拝の後のコーヒータイムみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteysgemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です(ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です)。使徒言行録の日課の個所で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここではコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。このように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は目では復活されたイエス様を見ていなくても、目撃者と同じように神との平和な関係を築けており、それで両者は一体で共同体を形成しているのです。

 

 そこで一つ気になることは、その一体性、共同体性は自分の財産を放棄して共有にしなければならないのかということです。そこまでやらないと一体性、共同体性は本物にならないのか?これも教会の条件なのか?聖書に書いてあるから、自分の財産を捨てなさいなどと言ったら、それこそいかがわしい宗教団体になってしまうではないか?

 

 ここで考慮にいれるべきことは、この財産の放棄はどうもイエス様が天に上げられた直後のエルサレムのキリスト信仰者の間で起こった特殊な出来事だったということです。パウロがコリントやガラティアやコロサイやフィリピやエフェソの教会に送った手紙を見ても、そこで財産の所有が禁じられて共有されていたことを示唆するものは見当たらないと思います。エルサレムのキリスト信仰者の集まりが共同体を形成するやり方として起こったことではないかと思います。どうしてエルサレムの集まりでそういうことが起こったのか?使徒言行録の記述からわかることは、まず彼らの心と魂は自分の所有物はないという位に一つになっていた状況があった、それからそのような状況が生まれた背景には使徒たちがイエス様の復活を大きな業をもって証ししていたことがあったということしかわかりません。それがどんな業だったかも具体的にはわかりません。それなので、イエス様が天に上げられた直後のエルサレムの信仰者たちは全財産を共有にするのが神の目に相応しいという状況だったということだと思います。

 

 私たちの場合は、心と魂が一つになることの現れ方としては今のところは別の現れ方をするのが相応しいということだと思います。「今のところ」と言うのは、当時のエルサレムと同じような状況になれば共有するのが相応しいということも起こりえるということです。そういう日が来るかもしれないと心のどこかで準備をするのです。そのために宗教改革のルターが財産と信仰者の関係について教えたことは大事だと思います。ルターは、財産は別に持ってもいいと言います。ただし財産の奴隷になるな、財産の主人になれと言います。どういうことかと言うと、財産を困っている隣人のために役立てることに躊躇しないで用いられるのが財産の主人なのです。もちろん、財産を共有していない時にも信仰者の心と魂が一つになっていることがあります。それは聖餐式です。信仰者は聖卓の前に並んで一人ひとりパンとぶどう酒を受けますが、全員が天の父なるみ神と平和な関係を持ち神と結びついているからです。今日これから聖餐式があります。その時、私たちは神と平和な関係を持ち神と結びついている者として心と魂は一つになっていることを忘れないようにしましょう。

  

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年4月5日金曜日

永遠に散り終わらない桜の木の下で ― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月31日 復活祭

 

イザヤ書25章6~9節

コリントの信徒への第一の手紙15章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

説教題 「永遠に散り終わらない桜の木の下で

― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

 

2.ヨハネ20章の出来事

 

 復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(5254節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ1225節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント1520節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

3.イエス様の復活に続く復活

 

 イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

 

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

 

 このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇235節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。 

 

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ2027節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意します。ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

2024年3月25日月曜日

受難週と主の再臨を待つ者の心構え(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日

 

イザヤ書63章15節-64章7節

コリントの信徒への第一の手紙1章3-9節

マルコによる福音書15章1-47節

 

説教題 「受難週と主の再臨を待つ者の心構え」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

 今日は教会のカレンダーでは「枝の主日」です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。

 

 このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日」の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。

 

 今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。

 

 そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。

 

――――――

 

 イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。

 

 そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。

 

 ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。

 

 神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。

 

 イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。

 

 イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。

 

 イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。

 

 さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。

 

 イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。

 

 さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。

 

 イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。

 

 以上の教えはマルコ1112章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録」と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。

 

 一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。

 

 そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。

 

 食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。

 

 まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。

 

 イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。

 

 さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。

 

 ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。

 

 イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。

 

 ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。

 

 イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。

 

 さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。

 

 主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。

 

 イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。

 

 フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン